TeamHackersをお読みの皆さん、こんにちは。イタリアで起業したトラベルデザイナー兼農家の「ゆりえ」と申します。
私は日本の教育やキャリアに対する疑問、そして12歳のオーストラリア留学をきっかけに、11年前に日本から海外へと出発しました。その後オーストラリアに6年、インドネシアに6ヶ月、東南アジアでノマド生活を5ヶ月、そして現在イタリアに4年目で、来年ヨーロッパ市民権取得予定です。
でも私の海外生活は、常に家を変え続けるヤドカリのように、ここイタリアで終わる予定は全くありません。
これから、「好きなことを仕事にする」、「女性としての視点から見る海外移住」、そして「ないものは作る」、というこの3つの観点から記事をアップデートしていきます。どうぞよろしくお願いします!
今回は初回ということで、まずは私が海外に興味を持ったきっかけ、からお話ししようと思います。
- 子どもが感じた日本と世界の違いとは
- オーストラリアに決めた理由
この2つに焦点を当ててお伝えします。
12歳が感じた日本への疑問
私の初海外はオーストラリアでした。シドニーオリンピックが開催される前年、私は市の国際交流協会の誘いで、2週間パースという西オーストラリアの街に行きました。
英語力ゼロの私は当時12歳でした。6歳ごろからすでに感じていた日本への疑問。きっと世界も同じなんだから私だけがおかしいのだと自分の中に押し殺していました。
日本への疑問その1:男女平等
パース市では2週間ホストファミリーと一緒に暮らしました。初日すぐに見えた不思議な光景は、両親ともに共働きで、お母さんは看護師。彼女の方が長い時間、しかも夜中も働いていたので、お父さんが子供を学校に送り迎え、ディナーもお父さんの仕事。お弁当もお父さんが作っていました。
それは、母親は常に家にいる、家事はすべて女性の仕事という日本の田舎の風景とはまったく違うものでした。
日本への疑問その2:人の笑顔
私が小学生であった当時、少しづつ子どもへの性犯罪や拉致などが増えてきた時代でした。知らない人の車には乗らない、防犯対策を必ず持って学校に行く、そのように教えられてきました。その流れなのか、知らない人には危ないから挨拶をしなくて良い、というのも教えられ、いつの間にかそれが浸透してしまったように感じます。
オーストラリアで感じた疑問はまさにこれ。知らない人にも笑顔で挨拶をする。目があったらニコッとする。一度迷子になった時は知らない人が家まで一緒に連れていってくれました。当たり前のこと、でもこれが12歳の私にはとても嬉しかったことをいまでも鮮明に覚えています。
日本への疑問その3:自由
小学校時代、学校で教えられたことは
- いま質問しちゃダメ
- これしちゃダメ
- 危険だからダメ
- 他の人の迷惑だからダメ
とダメの連続でした。6歳までとても自由に過ごしていた私。小学校に入学して、他のクラスメートが「友達100人でっきるかなー?」と目をきらめかせながら歌っている最中、私が思っていた事は、
「学校はロボット生産工場」
でした。
みんな同じ制服を着て、同じ髪型で、当時は男子は黒、女子は赤の同じランドセルが校則で、スカートの丈は絶対膝丈だし、靴は白じゃなきゃいけない。なんでみんな同じにしなきゃいけないんだとすごく窮屈に感じていました。
オーストラリアでは、みんな好きなキャラクターのバッグを持って、好きなくつを履いて、好きな色の服を来ていました。とても羨ましかったことをよく覚えています。
気になることは先生にすぐに質問し、先生も「ダメ」とは言わずにまず子供に耳を傾ける。この頃から「自由」について深く考えさせられるようになりました。
2週間のオーストラリア滞在から帰ってきて、空港で両親に初めて言った一言。
「私はオーストラリア人になる!」
ここから私の学生人生は、オーストラリア移住だけを考えて動き始めました。
移住までに達成させたこと
私が実際にオーストラリアに移住したのは9年も後のことです。それまで我慢、そして葛藤の連続でした。
「なぜ日本にいるのか」「高校から海外に移住しようか」「大学はどうしようか」とさまざまな思いが日々私の心に過ぎりました。すべてはオーストラリアの永住権のために、どの仕事に就こうか悩みはつきませんでした。
最終的に私は大学卒業まで、日本に残りました。それが良かったのか悪かったのか、いまはまだお伝えできませんが。
移住への道のり:英語
移住後にまずは留学と考えていた私は、オーストラリア人になると宣言した日から独学でまず英語の勉強を始めました。私は趣味が新しい言葉を学ぶことだったので、現在6ヶ国語話しますが、英語に関しては一度も海外で勉強したことも日本で塾に通ったこともありません。
ただ学校の授業と独学でマスターしました。中学2年生で英語検定は準1級、その後留学に必要なTOEFLは大学1年時に110点を取りました。これはTOEICでいうと980点以上になります。
どうやって言語の勉強の仕方か、それは他の記事でお話ししたいと思います。
移住への道のり:ビザ
海外移住の一番の難関はビザ習得でしょう。代理で習得を助けてくれるサービスもありますし、留学斡旋会社で留学を申し込めば、会社がビザの手続きを代理でしてくれるところもあります。
私は経済的にもリミットがあったこともあり、様々なビザ取得の無料サービスと辞書を駆使しながら、自分でオンラインから学生ビザの申請をしました。
オーストラリアを選んだ理由
すでにオーストラリアに狙いを定めていましたが、他の国についても調べてはいました。その中でも、なぜ最終的にオーストラリアにしたのかお伝えします。
理由①:気候
私が移住先、専門学校先に選んだのは、ブリスベンというゴールドコーストにほど近い、クイーンズランド州にある街でした。
メルボルンやシドニーと比べてしまうと、10年以上前は「THE 田舎」。でも、サニーステート(晴れの州)と呼ばれるクイーンズランド州のブリスベンは、サブトロピカル気候で、冬でも昼間は20度あり、夜も10度を超えます。冬が苦手は私には最高の場所でした。
理由②:予算を安くおさめることができた
私が日本を脱出した2012年頃から2013年にかけて、急激な円安が進んでいました。80円代だったのが、すぐに90円代になり、2013年半ばには100円代になったのを覚えています。
日本から移住へのタイミングもありましたが、この円安のおかげで2年間の専門学校の学費や生活費も、他の国に比べて安くおさまりました。もし2013年の中盤まで待っていたら、あまり意味はなかったかもしれません。
理由③:就職のチャンスがある国
私のそもそもの移住の目的は、日本から脱出することでしたので、海外就職ができる国でなければいけませんでした。
その点、オーストラリアは移民国家で多くの外国人が日々移住して、永住していきます。そこから、私にもチャンスはあるのではないかと思い始めました。
もちろん、カナダやニュージーランドも移民大国ですので、視野には入っていましたが、どうしても暖かい国、またビーチがあってサーフィンができる場所に移住したいこともあり、オーストラリアに決定しました。
最後に
オーストラリアに移住して、私の人生は180度変わりました。日本にいた時よりアクティブに発言するようになり、さらに社交性も身につけ、笑顔を取り戻しました。
もちろん移住してからの葛藤や悩みはありましたが、それ以上に手に入れた「自由」という素晴らしさは、私の中ではとても大きく、オーストラリアにいた6年間で日本に一時帰国したのは5回もありませんでした。それほどオーストラリアにハマってしまったのでしょう。
次回は、オーストラリアを離れた後、どのように仕事を作っていったかについてお伝えします。