TeamHackersをお読みの皆さん、こんにちは。イタリアで起業したトラベルデザイナー兼農家の「ゆりえ」です。
前回の記事では、私が12歳にして日本からオーストラリアに移住しようと思ったきっかけ、その理由をお伝えしました。
前回の記事はこちら:12歳の子どもがオーストラリアに移住しようと思った理由
小学校に入学し、みんなが浮かれている中、すぐに社会に適応できない、個性が強すぎるとわかり、「自由」について考えていた子供時代。12歳の子供の視点から見て体験したオーストラリアは、日本の真逆に映り、それが普通なのではないかと考えるようになりました。
それ以降、大学卒業までオーストラリア移住のみを考え行動し、大学卒業後は見事オーストラリア移住の夢を果たしました。
6年間過ごしたオーストラリアから出発。それは人生最大の決断だったと言ってもいいほどです。いまだにオーストラリアに戻りたくなる日もよくあります。
今回は、オーストラリアから出発して現在のトラベルデザイナーとして起業するに至るまでの、私の仕事についてお話ししようと思います。長くなりますが、もう少しおつきあいください。
オーストラリアという夢の国からの出発
オーストラリアからの出発は、実はまったく考えていなかったことで、「オーストラリア人になる」を狙っていた私には、なぜあの時オーストラリアから出たのかは現在でもよくわかりません。
当時私は3店舗のレストラン、カフェ、バー経営をしていました。仕事量も多く、ストレスもいまからでは考えることができないような量でしたが、給料も良く、仕事のスポンサーもあり、特に問題なしの生活を過ごしていました。このままもう数年頑張れば、夢への一歩であった永住権も手に入る域にいました。
この夢を遮ったのは、このレストランのオーナーとの仲。オーストラリアのホスピタリティ界では有名人で、国内に何店舗もの高級レストラン、さらにはワイナリーも持ち、雑誌にも載るような超有名人。そんな方からヘッドハンティングされ、その下で何年も経営を学びました。
しかし仕事をする上で、彼と私の間には大きな溝がありました。その溝がさらに深まり、私は店舗を去ることを決めます。その時に心に誓ったことは、二度と誰かの下で働かない、ということ。
そして、もしまた大好きなホスピタリティの世界で働くことになった時は、自分で開業する時だ、と決めました。
オーストラリアからノマド天国の東南アジアへ
人生はとても不思議で、退職届を出した1週間後、私は現在のイタリア人パートナーに出会いました。彼はちょうどオーストラリアから離れ、東南アジアに行くところでした。
将来を一緒に過ごす予定はまったく考えていませんでした。ただ退職してその後どうしようか悩んでいたこともあり、彼の「オーストラリアから出て世界を見よう」という言葉は当時の私にとって、とても魅力的に映りました。
オーストラリアだけを見続けてきた私にとって、世界はまだ未知の世界。しかもホスピタリティ一筋で生きてきた私には、現実的に見てノマド生活ができる自信がありませんでした。
しかも、誰の下でも働かないと決めてしまったこともあり、東南アジアで就活をするという選択肢もありませんでした。そのため、まず彼だけが東南アジアに移住し、私はオーストラリアで仕事をしながら、唯一スキルのある「翻訳」を真剣に勉強し始めました。
大学時代に少しだけ勉強したことがある翻訳の世界は、あまり得意な分野ではなかっため、大学卒業後も続けはしませんでしたが、ノマド生活をする上で「いま自分ができること X 言語力」を活かせる仕事はこれだけでした。
経験ゼロから仕事を作るためにしたこと
まずは、とにかくランサーズやクラウドワークスのフリーランスのサイトに登録し、そこからできそうな案件を見つけては翻訳していました。
それと同時に、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)がレポートの翻訳者を探していることを発見したので、そこに応募して翻訳者として活動を始めました。私が大学で興味を持って研究していた移民難民問題についてのレポートでした。
毎日案件を取り組むことで信頼度も上がり、少しずつですが仕事を回してもらえるようになりました。この時ほど英語をしっかり勉強しておいてよかったと思った時期はありませんでした。
思ってもいなかったことが武器になり、それを仕事にすることができたのです。これを境に、私は持っていた荷物の大半を売るかドーネーションし、夢の国であったオーストラリアを離れ、私はバックパック一つで東南アジアへと旅立ちました。
大人のギャップイヤー
私の東南アジア時代は、仕事ばかりを思いっきりする生活をするというより、午前中は仕事をし、午後は街を観光というスタイルでした。そのため、私の中では、東南アジアにいた頃はノマドであったというより、1年間の大人ギャップイヤーを体験した、という方が近いように感じます。
※ギャップ・イヤー(英: gap year)とは
高等学校卒業から大学への入学、あるいは大学卒業から大学院への進学までの期間のこと。英語圏の大学の中には入試から入学までの期間をあえて長く設定して(初夏卒業・秋入学)、その間に大学では得られない経験をすることが推奨されている。
東南アジアがフリーランスやノマドワーカーに人気な理由、それはやはり物価が安いということ。私とパートナーが借りていたアパートもプール付きの広い1LDKで1人当たり月1.8万円でした。そこにスクーター代や食費を入れても、3〜4万円ほどで生活できていました。お互いがノマドワーカーであったこともあり、休みたい時は休み、できるだけ旅する時間を作っていました。
この1年のギャップイヤー時期が「旅」を仕事にしたいと強く思うようになったきっかけにつながりました。
ギャップイヤー終了からイタリアへ
ノマドワーカーになってから1年後、私たちはインドネシアに残り土地を購入してB&B(ベッド&ブレックファースト、日本風に言うと民宿のような宿泊施設)を始めるか、それともイタリアに移住するかの選択を始めました。お互いインドネシアには強い思いがあり、このまま残りたいと思う気持ちと、彼のイタリアに一度戻りたいという思いがあり、どちらにとっても人生の大きな決断になりました。
もともとデザイナーであった彼は、実家の120ヘクタールもある農家を継ぐことに。私は翻訳を辞め、好きな旅を仕事にすると決めたため、お互いまったく経験も勉強もしたことがない仕事を始めました。
もちろん、私はイタリア語の習得から始め、それと同時に、アジア最大のオンライン旅行会社のリモートとして働き始めました。その間に、少しづつイタリアの旅行について調べ始め、SNSを使い積極的に南イタリアの魅力を伝え始めました。このように行動していたら、いつの間にかイタリアに来てみたいという人が増えて行きました。
私には、コネも旅行関係の経験もほぼゼロでした。そして起業まで1年以上クヨクヨ悩みました。
- 本当に仕事になるのか?
- こんな私でも仕事になるのか?
- 30歳にもなって仕事を変えてしかも起業なんて周りがどう思うのか?
そんなクヨクヨと1年過ごし、時間だけが過ぎて行きました。
起業という選択
クヨクヨと悩んでいた私には、実は意外とイタリアでの就職の選択肢はありました。英語、日本語がネイティブ、イタリア語はすでに上級、それに中国語やインドネシア語も話す日本人はなかなかイタリアにはいないため、仕事にしたいと思っていた旅行業界にも需要はあり、CV(履歴書)を送ると100%面接に呼ばれ、99%採用と言われました。
しかし、どの就職先もミラノやフィレンツェなど、彼のいる街より遥か離れた場所でした。私がイタリアに来た理由は、もちろん彼といるためでもありました。イタリアに移住してまで遠距離をする理由はあるのか、そう考えたときに、出てきた答えはNO一択でした。
しかし、南イタリアには職は少なく、失業率も13%。失業者の約半分は25歳の大学新卒業者と言われています。そんな中に外国人が入ってきても、なかなか職はありませんでした。仕事を探せど探せど見つからない。そんな時に言われた言葉はいまでも忘れられません。
「仕事がないなら作ればいい」
仕事を作るということ
この言葉を言われた時、そんなに簡単なことだったのか、と思うほど、すっと腑に落ちました。確かに周りのイタリア人を見ていると、起業する人がたくさんいます。実はイタリアは、従業員が10人以下の中小企業の比率がヨーロッパでもっとも高いと言われています。
仕事を作るということは、それまで考えたことがありませんでした。仕事は探すものという先入観が常にあったからです。そうではなく、自分が得意なことや持っているスキルを使って仕事を作ればいいと言われた時、私の心の中の雨が止みました。
その後、南イタリアに住んでいて、大手の旅行会社が行うような旅は提供したくない、私が東南アジアで生活していたような旅が提供できないだろうか、と考え始め、「トラベルデザイナー」という仕事に至りました。
旅をデザインする、世界に一つだけの旅を世界に一人だけのあなたに、というコンセプトに、ホームページやワードプレスを独学で作成し、ロゴや配色だけデザイナーであった彼と相談し決めてもらいました。そのホームページが完成し、名前も行きわたるようになった頃、こちらイタリアで起業いたしました。
終わりに
イタリアでの旅は始まったばかりで、起業したと言っても、まだ自信を持って伝えることができるレベルではありません。ただ、自分の好きな分野で、自分のできることで仕事を作りお客様にイタリアに来ていただき、夢の国であったオーストラリアにいた頃より、毎日がチャレンジで、それがとても心地良いです。
ここで学んだこと。それはゼロから何かを作り出すというクリエイティブさ。それが私の海外で生きるためのライフハックになりました。できそうにないこと、一見不可能に見えることでさえ、視点を変えることで、どんなことでもできるようになったのです。どんな問題に対しても適応力がアップしました。
次回は、最後に少しお話しした、イタリア人から学ぶビジネスマインドについてお伝えします。