TeamHackers読者のみなさん、はじめまして。チェコでフリーランスとして活動中のヒサノアスカです。
高等専門学校を3年で退学したのに、20代は留学やワーキングホリデー制度を利用して海外を放浪、そしてうまく縁がつながった結果、チェコで永住権を取得しました。
今回の記事では、こんな変わった経歴をもつ私の経緯と、5か国で暮らした20代でのエピソード、また大きな挑戦に踏み切る際に必要な2つの心構えについてお話します。
1. 私が日本を飛び出すまで
思い返せば、小さいころから「ここ」は自分の場所じゃないと感じていたような気がします。感情表現がオープンで、興味のあることには積極的に関わっていく。そもそも「空気を読む」ということを知らない子供だったせいか、常に周囲から浮いていました。
学校の成績は体育を除いて平均的に良い方で、塾の先生に勧められたことと、ITに興味があったことから高等専門学校に進学。けれど予想以上に高レベルな授業に、すぐについていけなくなりました。
そんな中、近所の英会話教室に通いはじめたのですが、楽しさのあまり気が付いたらどっぷりとのめり込み、学校の授業と趣味の時間以外はずっと英語に触れているという生活を送っていました。興味のあることと興味のないこと、どちらがより身につくかと言えば、当然前者です。
英会話には熱心に通う反面、学校の成績は常になんとか落第を免れる程度の低空飛行。そして3年生の終わりが近くなってきたある日、私にとって人生最大の転機が訪れました。学校の話や英会話教室の話をしていたとき、父が尋ねてきたのです。
「このまま高専を続けていい会社に入るか、高専を辞めてアメリカに留学して好きに生きるか選びなさい」
高専を卒業すれば大手企業に100%就職できると言われ、大学に行かなくてもいい仕事に就けるというアドバンテージに惹かれたのが受験に至った大きな理由でした。けれど、その時迷ったのは、ほんの数分程度。
「ごめん。高専辞めて留学する」
その日私は、安定のレールから離れて、道なき道を自ら切り開くことを選びました。
2. 高専を退学し、5か国で過ごした20代
もちろんそのあとは家族会議となったのですが、「語学留学をして英語力をしっかりと高め、20代の間はワーキングホリデー制度を使っていろいろな国に行きたい。30歳になったらちゃんと就職して恩返しをする」という私の意志を、父は認め、応援してくれました。
我が家は特別裕福な家ではなかったため、学費や渡航費は自分で稼がなければなりません。高専を正式に退学した直後から派遣社員として1年働き、アメリカで1年間語学留学をしました。
特にホームシックにかかることもなく、楽しく英語を学んで帰国した直後、「せっかく英語力を磨いてきたのだから」と、ほとんど蹴りだされるような勢いで、3か月後にはオーストラリアでワーキングホリデーを始めていました。
現地で仕事ができるといっても英語力にはまだまだ自信がなかったため、得られたバイトは日本食系飲食店のみ。準備資金がほぼゼロだったため、ほとんど毎日仕事詰めの日々となり、渡航前に夢見ていたオーストラリア一周なんて全然できずに終わってしまいました。
このことから「現地で稼げるのは生活費のみ。楽しみたいなら軍資金は必須である」と学び、今度は1年ちょっと日本で働いてからカナダでワーホリを始めました。
オーストラリアで過ごした日々のおかげで英語力には多少自信がついたため、また別の言語を学んでみたいと思い、フランス語が公用語のケベック州モントリオールを選んだのですが、ここで見事に挫折しました。
「英語がわかればヨーロッパ系言語はそんなに難しくない」という噂を鵜呑みにしていたため、フランス語に関する知識は「ぼん・じゅーる、めるしー、とれ・びあん」ぐらいのもので現地の語学学校に通いはじめました。
しかし、授業はフランス語のみで進められ、かつ英語とフランス語はまったく違う言語だと初回の授業で思い知りました。「なんとかついていこう」と頑張ったものの、結局1か月が経った頃には完全についていけなくなり、最終的には授業に行かなくなりました。
「英語が話せるのだからこれで十分!」と開き直ってカナダでの日々を楽しんでいたのですが、大学を休学してワーキングホリデーに挑戦し、不慣れな英語やフランス語で頑張っている友人たちから影響を受け、帰国が近づくころには「また何か新しいことを学んでみたい」と思うようになりました。
初めは、アメリカの2年間はとにかく学費を稼ぐ!と決めて、平日は派遣社員、週末は単発バイトという日々を過ごす中、デンマークは英語が通じる上に、大人でも入れるフォルケホイスコーレという寄宿制の学校があるという情報を入手。
おもしろそうだと思って調べてみたところ、国際協力国際理解を理念とする学校を見つけ、入学を決めました。
ヨーロッパを中心に、世界中から集まる学生たちと過ごした1年間はとても楽しく、本当にあっという間に過ぎてしまいました。「次はどこに行こう?」と考えていたまさにその時、仲良くしていたチェコ人たちから甘いささやきが。
「チェコってヨーロッパの中心にあるからどこにでも旅行できるし、物価は安いし、日本の企業もたくさんあるから仕事もきっとすぐ見つかるよ。だから来てみない?」
候補先には、基本的に英語が通じる国しか考えていなかったのですが、日本で1年間働いて貯められるお金で1年間語学学校に通うのであれば、悪くない生活ができそうだと算段が付いたため、「よし、チェコに行こう」とあっさり決めてしまいました。
3. チャンスをつかんでチェコ定住、からの永住権取得
チェコへの渡航を伝えた時は、さすがに家族の反応もしぶくなりました。というのも、親の世代だとチェコと言えばソビエト支配の共産主義国。そんなところに行って何をするのだと聞かれましたし、そろそろ日本に腰を落ち着けないかとも言われました。
チェコについては旅行で行ったプラハがとてもきれいだったことや、あちこち旅行をするための拠点として最適であることを、写真などを見せながら力説。
そして、海外で自由に生きてきたことから、型にはまらなければならない日本で暮らすのはとてもしんどいことを、何度も伝えて説得した結果、しぶしぶですが、折れてくれました。
そうしてチェコ語留学に踏み切り、期間終了間近で日本人を探していた日系企業の求人に応募し、運よく内定がもらえたのですが……ここでまさかの落とし穴にはまりました。
中途半端な学歴が、就労許可取得においてネックとなってしまったのです。
チェコの教育システムでは、高校は4年制で、更にMaturitaという卒業試験があります。けれど私の学歴は、先述のとおり高専3年での退学。つまりチェコにおいては中卒扱いとされ、会社に勤める能力があるのかどうかが問われることになったのです。
紆余曲折の末、最終的には何とかなったのですが本気で内定辞退を考えましたし、この時ばかりは自分の半端な学歴を恨みました。
正社員として働きはじめてから3年が過ぎ、このまま同じ会社に勤め続けるのか、それともチェコ以外の国も視野に入れて転職活動をするかを考え始めたころ、気が付けばチェコで永住権を取得する条件を満たしつつありました。
永住権があれば、仕事や学校、パートナーの有無などの理由がなくてもチェコにいられる。つまり仕事を辞めたとしても日本に帰らなくていい。そんな考えから手続きを進め、無事に永住権を入手しました。
4. 挑戦に年齢は関係ない! でもプランBは準備しておこう。
「あなたがそんなふうにできたのは、18歳で生き方を決断したからだ」と言われるかもしれません。けれど、何かを決断をするのに年齢は関係ありません。
重要なのは、一度決めたことはきちんとやり遂げるという意志力と、万が一失敗した場合を考えて事前準備をしておくことです。
私の場合は、海外で何かを失敗したとしても、実家に戻れば体勢を立て直せるという考えがあったこと、またカナダワーホリ以降は帰国後も2~3か月は生活できる資金を準備しておいたことで、気軽に日本を飛び出すことができました。
また、初めからワーホリや留学という手段を使うことで、1年後の帰国が前提条件だったため、帰国する=海外進出失敗にはなりませんでした。
いざ何かを決断して実行したとしても、絶対に成功するという保証はありません。特に海外移住は、移住先が体質的・性質的に合わない可能性が少なからずあり、「思っていたのと違った」「どうしても無理だった」と諦めて帰国する人がいるのは、れっきとした事実です。
ですがこれだけは、実際に現地に行ってみないとわからないことですし、自分ではどうしようもないことなのですから、失敗と捉える必要もありません。
もちろん事前準備や計画の甘さが失敗につながることもあるでしょう。けれど、挑戦の断念を肯定するための理由を事前に準備しておけば、失敗は失敗ではなく経験を積んだうえでの撤退となり、再挑戦につながる一歩となるのです。
まとめ
少し前まで、社会人になってから何か大きな挑戦をするのは、会社を辞めることが前提条件であり、実行に移すのがなかなか難しいものでした。
けれど近年では特別な制度を設定したり、リモートワークを認めたりする企業が増えてきたことで、海外進出を含めたさまざまなことへの挑戦は、無謀なことではなくなってきています。
実行に移しても移さなくても、何らかの理由で後悔する可能性はゼロではありません。それならば、失敗も含めてみずからの経験となるように実行してからの後悔のほうが、「やっぱりあの時やっておけばよかった」と引きずり続けるよりもはるかにいいと思いませんか?